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Muroran Port




WINDOW OPENER MAKER 明治5年トキカラモイにできた最初の波止場


WINDOW OPENER MAKER 明治24年イトツケレップ(現在の御崎町)の石炭桟橋


WINDOW OPENER MAKER 明治中期の室蘭港


WINDOW OPENER MAKER 明治末の室蘭港


WINDOW OPENER MAKER 昭和26年の中央埠頭


WINDOW OPENER MAKER 昭和30年代の室蘭港

室蘭港の歴史

★プロビデンス号の来航
外国船が日本近海に姿を見せはじめたのは、ローソクの原料となる鯨の捕獲や金や銀の探検のためでした。
特にコロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)以来、東洋を訪れる船も多くなり、マルコ・ポーロの「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」の中に「日本という大きな島は、黄金が無尽蔵なまでに、埋蔵されている」と書かれたため、外国船が次第にその数を増しました。
"黄金の島ジパング"に夢を広げ、太平洋に残り少なくなった植民地と交易航路を求めて、寛政8年ウィリアム・ロバート・ブロートン船長が率いるイギリスの探検船プロビデンス号(バーク型帆船)が松前藩領下の絵鞆に来航しました。
このとき、デンマーク生まれの水兵ハンス・オルソンが、作業中の事故で死亡、その遺体を大黒島に葬ったことから、この島をオルソン島と名付けました。
プロビデンス号は、その後宮古沖で沈没しましたが、スクーナー型帆船のプロビデンス号として翌年(寛政9年)も来航して、アイヌの人たちとも交流し、港内の測量を行いました。
ブロートン船長は、故国に帰ってからその著書「北太平洋探検の航海」で、北海道に「エンデルモ(エトモ)・ハーバー」という天然の良港ありと、室蘭港の良さを広めるとともに、有珠山や駒ケ岳などの火山群を見て、この湾を「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、世界に紹介しました。
★札幌本道の開削と室蘭の開港
明治5年の春、トキカラモイ(海岸町と緑町の境界付近)に室蘭の夜明けを告げる建設のつち音が高らかに響き始まりました。
道都札幌への道(函館―森−<海路>−室蘭―札幌)、札幌本道の築造工事が始まったのです。
この道路は、マカダム式舗装(砂利敷)による長距離道路として、日本で最初に作られた車馬道でした。(本州にも立派な道路がたくさんありましたが、一雨降る度にグチャグチャになる道路で、本格的な砂利敷道路ではありませんでした)
開拓使の陸地測量兼道路築造長のワーフィールドは、このあたり一帯の地形を見渡せるホシケサンペ(測量山)の山頂に登って、三角測量の基点を定めて測量を行ったことから、後にこの山を測量山と呼ぶようになりました。
工事は最初のうち180人前後で始められましたが、函館―森の工事が終わった7月ころには総勢 5,082人と本格的な工事に入り、8月にはトキカラモイ―鷲別の山道開削を終わり、9月には樽前まで進むスピード工事でした。
工事に従事していた人たちは、外人教師の仮住居のほかは、開拓使の役人はもちろん、職工・人夫らがいくつかの組に分かれ、テント張りの掘っ立て小屋で生活をしていたため、病人が続出しました。

明治5年10月、開拓使は、トキカラモイ付近を「新室蘭」とし、室蘭村(崎守町)を旧室蘭と改めました。【語源は「トキカル・ムイ」(チカの多い入江)】
現在の崎守町は、その後「元室蘭」と呼ばれましたが、地元住民は元の室蘭ではなく本当の室蘭だということから「本室蘭」に改め、現在でもこの地名が学校の名前に残っています。
この新室蘭の発展と共に、会所が建てられて以来、約70年もの間、交通の要路として栄えた崎守町は、急速に衰えていくことになりました。
 開拓地の常として、ここで働く人々は、いずれも粗暴であり、普通のやり方では統率できないため、組頭は帯刀を許されており、中には、いつも日本刀を抜き身で持ったまま指揮にあたる者もいました。
 人夫などの労働者に対する規則は厳しく、印鑑を紛失すると賃金カット、病気をして無届けで欠勤すると5日分の賃金を半分に減らされるなど、苛酷(かこく)なものでした。
そして死亡者がでれば切り開かれた山上に葬られたため、そのそばの坂を「仏坂」と呼ぶようになりました。
この名を忌み嫌って、昭和7年、現在のNHK付近に市役所があったことから「市役所通り」と改められましたが、今なお仏坂の名で呼ばれています。

 本道の工事は、10月に札幌本府の直前まで進みましたが、指導者のワーフィールドが酒乱のため解任されたのと、寒さのため工事が難行したこともあって、工事をいったん打ち切り、多くの人たちが新室蘭で越冬することになりました。このため、幕西は、酒と賭博に明け暮れた荒くれ者のけんかが絶えず、殺人事件が多発したため、幕西坂は人呼んで「人殺し坂」とも呼ばていました。
札幌本道工事と並行して行われていたトキカラモイの桟橋は、長さ47m、幅2mの木造埠頭で、明治5年7月に完成しました。
桟橋完成とともに、室蘭―森の定期航路の第1船として就航したのは、開拓使の付属船「稲川丸」(15t、25馬力、乗員11人)で、この明治5年が、室蘭開港の年になっています。
以上室蘭市ホームページ内 室蘭の歴史より抜粋




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